なぜ低所得層ほど不健康な食品を選びやすいのか。この問いは長年にわたり公衆衛生や社会政策の分野で注目されてきました。
一般的には「健康的な食品は価格が高い」「都市部の低所得地域ではスーパーマーケットが少なく、購入できる食品が限られている」といった供給面の問題が語られることが多いです。確かにこれらの要因は無視できません。
しかし最新の研究は、供給条件を整えたとしても、選択そのものに大きな差が残ることを示しています。
2025年に発表されたインペリアル・カレッジ・ビジネス・スクールのベルナルド・アンドレッティ博士らの研究は、この問題を心理的な側面から明らかにしました。
都市部を対象に、異なる社会経済層の人々がどのように食品を選択するのかを実験的に調べ、その背後にある動機や認識を詳細に検証しました。
結果として浮かび上がったのは「満腹感を最優先する」という低所得層特有の心理的傾向です。
なぜ低所得層は不健康な食品を選びやすいのか
価格やアクセスの問題だけではない
これまでの議論では「健康食品は高くて買えない」「安価に手に入るのはファストフードやスナック菓子ばかり」といった説明が中心でした。確かにこれらは現実的な制約です。
しかし研究では、価格や供給条件をコントロールしたうえで実験を行っても、低所得層の人々は高所得層に比べて不健康な食品を選ぶ傾向が強いことが示されました。
つまり、経済的な要因や物理的なアクセスの問題だけでは説明しきれない選択の差が存在するのです。
このことはマーケティングの観点から見ても重要です。なぜなら、供給環境を整えるだけでは消費者行動は変わらない可能性が高いからです。
満腹感を最優先する消費者心理
研究が明らかにした最大の特徴は、低所得層の消費者が食品を選ぶ際に「満腹感」を最優先するという点でした。高所得層の人々が「健康度」や「栄養価」といった要素を重視するのに対し、低所得層の人々は「お腹がどれだけ満たされるか」に強く関心を寄せます。
もちろん味の良さも重要視されます。しかしここが興味深い点で、味については低所得層も高所得層も同等に重視しているのです。
つまり、健康と満腹感の間でトレードオフが発生した場合、低所得層は健康を犠牲にしてでも満腹を選ぶ傾向があるということになります。
この心理は単なる経済的合理性だけでは説明できません。
研究では、低所得層の参加者に「なぜ満腹感を重視するのか」と尋ねたところ、「安いから効率的」という理由だけではなく、「満腹そのものが安心感を与える」「食べた後に空腹を感じないことが大事」といった感情的な側面も多く挙げられました。
健康=おいしくない・腹持ちしないという思い込み
強固なネガティブ連想
研究で明らかになったもう一つの重要な知見は、低所得層の人々が持つ「健康食品」に対する強いネガティブな連想です。多くの人が「健康的な食品は味気なく、美味しさに欠ける」と考えています。さらに「健康食品は腹持ちが悪い」という思い込みも広く浸透していました。
この認識は単なる主観にとどまらず、実験的に数値化されたものです。参加者に食品の写真を見せて「味」「健康度」「満腹感」を評価してもらうと、低所得層の人々は一貫して健康食品を「不健康食品よりも味も腹持ちも劣る」と判断しました。
つまり、実際に食べる前から、健康食品にはマイナスのイメージが貼り付けられているのです。
マーケティング上の壁
この心理はマーケティングにおいて大きな障害となります。
健康食品を売り出す際、一般的には「栄養価が高い」「健康に良い」といった訴求が中心となります。
しかし低所得層にとっては、そのメッセージが「お腹は満たされない」「味が悪い」というネガティブな連想を強化してしまう可能性があるのです。
つまり「健康」という言葉自体がターゲットにとって魅力的に響かない場合があるのです。単純に供給量を増やし、価格を下げるだけでは購買行動を変えることが難しい理由がここにあります。
マーケターが取るべきアプローチ
栄養より満腹感を訴求する
研究の中で注目すべき実験があります。低所得層の参加者に、健康食品を「満腹感をしっかり得られる」と強調して提示したところ、通常よりも健康食品を選ぶ割合が増加したのです。
これはマーケティング戦略において非常に大きな示唆を持ちます。
低所得層に向けた健康食品の販促では、「栄養価が高い」「体に良い」といった従来型のメッセージよりも、「食べ応えがある」「しっかりお腹を満たせる」といった表現の方が効果的である可能性が高いといえます。
味覚価値との両立を示す
満腹感の訴求に加えて、「おいしさ」との両立を強調することも欠かせません。
研究でも示された通り、味の重要性は所得層を問わず高く、消費者は味に妥協することを望んでいません。したがって「おいしい上にしっかり満足できる」というメッセージが説得力を持ちます。
例えば「ジューシーで食べ応えのあるサラダ」「小腹をしっかり満たす健康スナック」といった形で、味覚と満腹感を同時に訴えることが有効です。
これはこれまで不健康食品が得意としてきたポジショニングを、健康食品にも取り込むアプローチと言えるでしょう。
政策・マーケティングへの示唆
この研究は、食品供給や価格補助といった政策的介入だけでは不十分であることを示しています。
心理的バリアを取り除かなければ、消費者の選択は変わらない可能性が高いのです。
マーケターにとっても同じで、商品設計や広告戦略に「満腹感」「食べ応え」といった要素を組み込むことで、低所得層の消費行動を変える余地があります。
マーケティングが変えられる「健康格差」の現実
低所得層の人々が不健康な食品を選びやすい理由は、単なる価格やアクセスの問題ではありません。
研究が明らかにしたのは、彼らが「満腹感」を最優先し、「健康食品=おいしくない、腹持ちが悪い」という強い思い込みを持っているという事実です。
この心理的な要因こそが、供給を整えても消費行動が変わらない理由なのです。
マーケターが注目すべきポイントは明確です。健康食品を訴求する際には、栄養や健康だけでなく「満腹感」や「味の良さ」を前面に押し出す必要があります。
消費者が求めているのは、単なる健康食品ではなく、「おいしくて、しっかりお腹を満たす食品」なのです。
この視点を取り入れることで、企業は新たな市場を切り開くことができるだけでなく、社会全体の健康格差を縮小する一助となるかもしれません。
マーケティングが人々の食の選択を左右する力を持っているからこそ、その責任と可能性をあらためて考える必要があるのではないでしょうか。