ここ数十年で、経営陣と一般の従業員の給与格差が世界的に拡大しました。
たとえばアメリカでは、1970年代以降、経営者の報酬は900%を超えて上昇した一方、一般の従業員の給与はわずか十数%しか増加していません。
日本ではこれほど大きな格差はありませんが、それでも同一企業内での給与格差は大きくなっています。
成果やポジションに相応しい報酬を支払うことは、優秀な人材を惹きつけるためには有効な戦略といえます。
しかし、社内の給与格差が大きくなりすぎると、組織全体のパフォーマンスとしてはマイナスとなり、顧客満足度や利益の低下につながることもあります。
人事経済学における「トーナメント理論」とは何か
なぜ、社内の給与格差が顧客満足度や利益の低下につながるのでしょうか?
その理由は「トーナメント理論」によって説明できます。
これは、1981年に経済学者のエドワード・ラジアーとシャーウィン・ローゼンによって提唱された、人事経済学の理論です。
非常に単純化していえば、社内で従業員が「昇進」という報酬を巡って競い合う構造を説明した理論です。
トーナメント理論によれば、昇進によって得られるポストの利益(=年収等)と、通常のポストの利益の格差が大きくなるほど、従業員の競争意識が強くなり、仕事に対するモチベーションも高まりやすいとされています。
しかし、過剰に格差が拡大すると、従業員は社内のライバルに勝つことだけに意識が向いてしまいます。
それによって、協力体制が失われ、組織全体のパフォーマンスが落ちて、顧客満足度が低下し、最終的には利益まで落ちてしまうのです。
給与格差と顧客満足度、業績の関係の調査
社内の給与格差が組織にマイナスの影響を及ぼすことは、ドイツ・マンハイム大学の研究チームによる調査でも分かっています。
この調査は2つの異なるアプローチで給与格差と顧客満足度や業績との関係を検証しています。
最初の調査では、BtoB(企業間取引)に特化した106社を対象に、マーケティングや営業を担当する上級管理職に対してアンケートを実施しました。
このアンケートでは、従業員が顧客に対してどのような姿勢や行動を取っているのかを尋ねています。
たとえば「どれだけ頻繁に顧客と接触しているか」「顧客に対して不誠実な行動が見られるか」「社内に顧客志向の文化が根付いているか」といった側面を把握しました。
また、これらの主観的なデータに加え、各企業ごとの財務情報を外部のデータベースから収集し、経営陣と一般従業員との平均年収を計算し、給与格差を定量的に測定しました。
さらに、企業の短期的な収益性(たとえばROA:総資産利益率)を指標として取り入れ、給与格差が業績にどう影響するかも分析しています。
もう一方の調査では、米国の上場企業を対象に、1994年から2018年までの25年間にわたるパネルデータが収集されました。
ここでは、アメリカ国内で広く利用されている顧客満足度指標「ACSI(American Customer Satisfaction Index)」を用いることで、客観的かつ継続的な顧客満足度の変化を追跡しました。
また、企業の労務費や経営陣の報酬データを活用して、年収格差を測定しました。
社内の給与格差は一貫してマイナスの影響
これら2つの調査の結果、企業内の給与格差が顧客満足度に対して、一貫してマイナスの影響を与えることが明らかになりました。
ここで特に重要なのは、この影響が単なる報酬の不平等感ではなく、従業員の行動や組織文化を介して生じているという点です。
具体的には、給与格差が大きくなるほど、従業員は社内の競争に勝ち残るための個人主義的な姿勢を強めていきます。
このような環境では、出世や評価を意識するあまり、顧客に対して誠実とはいえない営業行動をとる可能性が高まります。
たとえば、売上のために事実を誇張したり、顧客の利益よりも自分の成果を優先したりといった「利己的な顧客対応」が顕著になるのです。
さらに、給与格差が大きい職場では、同僚間の協力関係が弱まり、知識の共有や相互サポートといった行動が減少する傾向も確認されています。
このような状況下では、部門間の連携がうまくいかずにサービスの質が低下し、結果的に顧客満足度に悪影響が及ぶことになります。
つまり、給与格差が従業員同士の信頼関係や組織としての一体感を損ない、その余波が顧客にも及ぶということです。
一時的な利益の向上には寄与するが…
今回の調査では社内の給与格差が短期的な業績に対しては、ポジティブな影響を与える場合があることも示唆されています。
たとえば、強い競争環境の中で一部の従業員が成果を出そうと努力し、一時的に収益や業績が向上するケースも見られました。
しかし、その効果は持続的なものではありませんでした。
なぜなら、顧客満足度の低下という負の影響が時間とともに現れはじめ、業績にも悪影響を与え、長期的にはマイナスとなるからです。
このように、給与格差は一時的には企業に利益をもたらすことがあっても、持続的な競争力や顧客との関係性を損なうリスクを抱えているということです。
組織の文化そのものにも悪影響
今回の調査は、給与格差がもたらす影響を「顧客満足」という視点から初めて体系的に明らかにしたものですが、実は企業の文化的な側面に関しても注目すべき結果が出ています。
データをさらに分析すると、給与格差の大きい企業ほど、従業員の間で共有される「顧客中心主義」の価値観が弱まる傾向にあることが分かったのです。
つまり、単なる個々の行動変化にとどまらず、企業全体の価値観やサービス哲学そのものが揺らいでしまうというのです。
これは、顧客満足度の一時的な低下ではなく、企業としてのブランドや信頼、長期的な関係構築力にも深刻なダメージを与えかねない問題です。
どのように報酬制度を構築するかという経営判断が、現場の従業員のふるまいだけでなく、組織文化や社会的信用にもつながっていることを、あらためて認識する必要があります。
参考文献:Boas Bamberger, Christian Homburg, and Dominik M. Wielgos. (2021). Wage Inequality: Its Impact on Customer Satisfaction and Firm Performance.